不妊治療の最前線で看護師として日々患者様に寄り添っていると、診察室での医療的なやり取り以上に、皆様が切実に抱えられている「目に見えない負担」の重さを痛感することがあります。それは、クリニックへの通院に伴う物理的な「距離」の問題と、それに付随して家計を圧迫し続ける「多額の交通費」という経済的な壁です。
現在、メディア等でも報じられ大きな関心を集めている「不妊治療の交通費補助」について、こども家庭庁が2026年度の予算案として導入の検討を進めていることが分かりました。現時点ではまだ確定した制度ではありませんが、国がこの問題に正面から向き合い、具体的な支援を検討し始めたことは、私たち医療従事者にとっても、そして何より今この瞬間も不安を抱えながら通院されている患者様にとって、極めて大きな希望となります。
今回はこの検討案の内容と、なぜ今この支援が急務とされているのか、そしてすでに先行して実施されている妊婦さんへの支援事例などを交え、最新の状況を詳しくお伝えします。
なぜ今、「交通費」の公的支援が必要とされているのか
この政策が検討されている背景には、主に二つの大きな目的があります。一つは「居住地域による治療環境の格差の解消」、そしてもう一つは「妊娠を希望する方の経済的負担を軽減し、誰もが安心して治療を受けられる環境を整えること」です。
深刻な地域格差の実態
日本産科婦人科学会が公表しているARTデータブックによれば、高度な不妊治療を行える施設は全国に約630件存在しますが、その分布は極めて偏っています。東京都には約110件、大阪府には約60件と、特定の都市部に全国の施設の約4分の1が集中しているのが現状です。都市部であれば、仕事帰りに電車で数分通えば複数の選択肢がありますが、地方では県内に数件しか施設がなく、県境を越えて数時間をかけて通わざるを得ない方が大勢いらっしゃいます。
「通い続けられる」という安心のために
しかし、この問題は「遠いから物理的に通えない」という点だけに留まりません。不妊治療、特に採卵周期などは、卵胞の発育状況を確認するために短期間で何度も通院する必要があります。たとえ通える距離であっても、その都度発生する往復の交通費が家計に重くのしかかります。
2022年から治療費自体は保険適用(3割負担)となりましたが、交通費や宿泊費は今なお全額自己負担です。通院を重ねるうちに交通費だけで数十万〜数百万円に達し、それが原因で「経済的にこれ以上は続けられない」と、授かるチャンスを目の前にして治療を断念せざるを得ないケースを、看護師として目にしてきました。
今回の予算案は、住んでいる場所や経済状況にかかわらず、子どもを持ちたいと願うすべての人に平等な機会を保障しようとする、国としての強い意思表示なのです。
根拠となる「先行事例」:妊婦健診における通院支援
ここで皆様に知っておいていただきたいのは、こども家庭庁は、すでに妊婦健診においては、地方自治体を通じて交通費の支援を行っています。
具体的には、2024年4月に出された「母子保健サービス等の提供体制の確保について」という通知の中で、居住地域に関わらず適切な健診が受けられるよう、通院のための交通費支援などの環境整備を自治体に求めています。妊娠後の母子の健康を守るための仕組みは、すでに先行して動き出しているのです。
妊娠してからのサポートだけでなく、妊娠を望む段階から切れ目のない支援を提供しようとする今回の動きは、これまでの母子保健の考え方を一歩進めた、非常に合理的で温かい流れであると言えます。
検討されている補助案の具体的なポイント
現在、議論されている支援内容は、通院の心理的・経済的ハードルを直接的に下げるものです。
● 対象の目安: 自宅からクリニックまで片道1時間以上かかる方
● 補助率の案: 公共交通機関(鉄道、バス、タクシー等)の実費の8割(上限あり)
例えば、往復の交通費が2万円かかる方が、1周期に4回通院した場合、これまでは8万円の全額自己負担でした。もしこの制度が実現すれば、自己負担は1万6,000円にまで抑えられる計算になります。この6万4,000円の差は、単なる数字以上の意味を持ちます。それは、治療を継続するための勇気であり、将来への備えであり、心の支えになるはずです。
※なお、現時点では「予算案」の段階であり、今後の国会審議等を経て正式に決定されます。2026年4月からの実施を目指した、前向きな検討が進んでいるという状況です。
看護師として、皆様に今伝えたいこと
不妊治療は、身体への負担はもちろん、スケジュール調整の難しさや、毎月の結果に対する不安など、精神的なエネルギーを消耗するものです。その上に、高額な交通費という重圧がのしかかることは、本来あってはならないことだと私たちは考えています。
私たちは、あなたが診察室に入ってくるその一歩に、どれほどの労力が込められているかを知っています。通院に来るだけで疲れていらっしゃる姿。仕事との調整がつかず、泣く泣く大切なステップを延期する姿。そうした皆様の孤独な努力を、ようやく国が社会全体の問題として認め、支えようとしています。
この制度が実現すれば、近いからという理由だけで病院を選ぶのではなく、自分が最も信頼でき、納得できる技術を持つクリニックを選べるようにもなります。選択肢が広がることは、治療への納得感、そして結果への希望にも直結します。
結びに
共に歩むために
不妊治療の道のりは、時に長く、ゴールの見えないトンネルのように感じられるかもしれません。しかし、社会の仕組みは一歩ずつ、より優しく、より公平な方向へと確実に進化しようとしています。
全国にいる生殖看護認定看護師は、単に生殖医療において医療処置を行うだけの存在ではありません。あなたが一番良いコンディションで、納得して治療を続けられるよう、最新の制度情報を正しくお伝えし、心身の両面からサポートするパートナーでありたいと願っています。
正式な制度決定までにはまだ少し時間がかかるかもしれませんが、「あなたが子どもを持ちたいと願う気持ちを、社会全体で応援しようとしている」というこの事実は、きっと皆様にとって心強い支えとなるはずです。
参考文献:
・日本経済新聞(2026年1月11日):「不妊治療の交通費、8割補助へ こども家庭庁」https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA263UL0W5A221C2000000/(2026年1月15日現在)
・日本産科婦人科学会:「ARTデータブック(2023年度版)」https://www.jsog.or.jp/activity/art/2023_JSOG-ART.pdf(2026年1月15日現在)
・こども家庭庁:「令和8年度こども家庭庁当初予算案」https://www.cfa.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/88749a20-e454-4a5b-9da8-3a32e1788a23/9f856d3e/20260109_policies_budget_94.pdf(2026年1月15日現在)
・こども家庭庁:「妊婦に対する遠方の分娩取扱施設への交通費及び宿泊費支援事業の 実施について」https://www.cfa.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/d4a9b67b-acbd-4e2a-a27a-7e8f2d6106dd/74cc36be/20240416_policies_boshihoken_tsuuchi_2024_21.pdf(2026年1月15日現在)
・日本経済新聞(2026年1月11日):「不妊治療の交通費、8割補助へ こども家庭庁」https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA263UL0W5A221C2000000/(2026年1月15日現在)








