
日本の育児文化は時代とともに変化してきました。その象徴ともいえるのが、「だっこ」と「おんぶ」の移り変わりです。かつては「おんぶ」が当たり前でしたが、平成以降は「だっこ」が主流になりました。その転換点となったのが、1980年代に国民的スター・山口百恵さんが前抱っこ(だっこ紐)を使っている姿が週刊誌に掲載されたことだと言われています。
しかし、この育児の変化は、ただの流行ではありません。それまでの日本で育まれてきた「おんぶ文化」の長い歴史や、子育てを支えるおばあちゃん世代の戸惑い、さらには世界各地の育児スタイルの違いとも深く関わっていました。今回は、「だっこ」と「おんぶ」の歴史、文化、そしてちょっとした小ネタを交えながら掘り下げていきたいと思います。
昭和までの「おんぶ文化」——1000年以上の伝統
日本で「おんぶ」が主流だったのは、決して昭和だけの話ではありません。平安時代の巻物にも、着物の中で赤ちゃんをおんぶしている女性の姿が描かれています。つまり、平成に「だっこ」が普及するまでの約1000年間、日本の育児スタイルは基本的に「おんぶ」だったのです。
おんぶのメリットとして、両手が自由になること、赤ちゃんの姿勢が安定しやすいこと、親の視界を遮らないことなどが挙げられます。こうした利点から、日本ではずっとおんぶが合理的な育児スタイルとされてきました。
そんな中で子育てをしてきた昭和の母親たち(平成のおばあちゃん世代)にとって、「おんぶが当たり前」という感覚は強く根付いていました。
世界のおんぶ事情——アフリカと日本の違い
実は、おんぶのスタイルは世界各地で異なります。例えば、アフリカでは赤ちゃんを腰のあたり、お尻に乗せるようにして布で固定します。一方、日本のおんぶは、肩に乗せるような位置になります。
この違いは、単なる文化の違いだけではなく、人種による骨格の違いも関係しています。アフリカの女性は腰の位置が高く、お尻の上に赤ちゃんを乗せることで安定しやすい構造になっています。一方、日本人の体型では、肩に近い位置でおんぶするほうが負担が少なく、楽に赤ちゃんを支えられるのです。
つまり、私たちの先代の母親たちは、自分たちの身体に合った、最も楽な育児スタイルを自然と受け継いできたとも言えます。
突然訪れた「だっこ」の時代——おばあちゃん世代の戸惑い
そんな長い歴史を持つ「おんぶ文化」ですが、平成に入ると一気に「だっこ文化」が広がりました。その象徴的な出来事が、1980年代に山口百恵さんが前抱っこ紐を使用した写真の掲載です。それをきっかけに、都市部を中心に前抱っこが流行し、平成には「おんぶよりもだっこが良い」という考え方が一般的になりました。
しかし、ここで困ったのが平成のおばあちゃん世代です。
それまでの日本では、育児は家族みんなで協力して行うもので、特におばあちゃんが手伝うことも多いものでした。しかし、1000年以上もの間「赤ちゃんはおんぶするもの」だったため、平成に突然「だっこで育てよう!」という流れが生まれても、おばあちゃんたちはどうやって赤ちゃんを抱けばいいのかわからなかったのです。
「赤ちゃんは背中に背負うもの」という価値観の中で育ててきたおばあちゃんたちは、前抱っこをする若い母親たちを見て、「そんな抱き方で大丈夫なの?」と不安を覚えたり、自分で孫を抱っこしようとして「どう持てばいいかわからない」と戸惑ったりしました。
また、昔のように「おんぶなら両手が自由に使える」わけではないため、おばあちゃん世代にとっては、孫の世話をするのが意外と大変な時代になったとも言えるのではないでしょうか。
平成に訪れた「だっこブーム」は、育児の方法が変わっただけではなく、世代間のギャップも生み出すことになったのです。
令和の「だっこ」と「おんぶ」——選択肢が広がる時代へ
令和の時代に入ると、育児グッズの進化によって、だっこ紐もおんぶ紐もより使いやすくなりました。
最近のトレンド
・海外ブランドの定着
欧米の育児文化の影響を受け、腰や肩の負担を軽減する設計のだっこ紐が主流に。日本人の小柄なサイズ感よりも海外の大きなサイズに合わせている製品も多かったのですが、最近では日本人に合った製品も多くなってきていますね。
・おんぶの再評価
昭和のような「おんぶ紐」が見直されたり、だっこ紐を背負う形でおんぶできるものが増え、おんぶの良さが再認識されつつあります。
・SNSによる影響
昔の山口百恵さんのように、今はインフルエンサーや有名人が使う育児グッズが流行の発信源になっています。
今や、「おんぶとだっこ、どちらが正解か」という議論ではなく、「親と赤ちゃんにとって、どちらが快適か」が選択基準になっています。
まとめ——1000年の伝統と世代間ギャップを超えて
平成に訪れた「だっこの時代」は、日本の育児文化にとって大きな転換点でした。改めて振り返ると、「おんぶ」の文化は平安時代から1000年以上も続いてきたものだったのです。
おばあちゃん世代も親世代にとっても、「突然のだっこ文化」に戸惑いながらも、子を可愛がる気持ちは変わりません。そして今、令和の時代は「だっこもおんぶも選べる時代」。大切なのは、「どちらが正しいか」ではなく、「どちらが親子にとって心地よいか」だと思います。そして、使用する製品やご自身の体型に合った心地いい方法を学び、それを後世につないでいくことではないでしょうか。
育児の形は変わっても、赤ちゃんを愛情いっぱいに抱きしめる気持ちは、いつの時代も変わりません。赤ちゃんを育てるために欠かすことのできない「だっこ」と「おんぶ」の移り変わりには、それぞれの時代の暮らしや価値観、そして親たちの願いが込められています。
おんぶで守られるだけでなく、だっこで向き合うようにもなった現代の育児。これからも、時代とともに育児の形は変わっていくかもしれませんが、親が子どもを包み込む温もりが、赤ちゃんにとって一番の安心であることは、これからも変わらないでしょうね。
参考文献
- 園田 正世
「地域に伝わるおんぶ具の変遷―出雲『子負帯』と天草『もっこ』を事例に」
『生活学論叢』第35号, 2020年, pp. 15-24.
jstage.jst.go.jp - エメリー・バーナード(文), ドゥルガ・バーナード(絵), 仁志田 博司・園田 正世(監訳)
『世界のだっことおんぶの絵本』
メディカ出版, 2006年.
crd.ndl.go.jp