不妊治療で心身負担がかかりがちな体外受精。体外受精は、医師と培養士の連携が欠かせないと言われていますが、患者にとって培養室はまさに未知の世界。「採卵後の卵がどう扱われているんだろう」「培養士はどんな職種なんだろう」といった不安の声が多く聞こえます。
そこで今回は、桜十字渋谷バースクリニックの培養室長楠本さんに、培養士や培養室についてお話をお伺いしています。
厳しかった一人前の培養士までの道のり。だからこそ得られた知識と技術。
ーー まず、学生時代にどのようなことを学ばれて、なぜ培養士を目指したのか、そのきっかけについてお聞かせ下さい。
楠本さん:私は学生時代にバイオテクノロジーを学ぶ中で胚培養士という職業を知り、就職しました。体外受精については仕事をしながら勉強しましたが、より専門的な知識を得るために生殖補助医療を学べる大学院に入学し、働きながら学びました。
培養士を目指したのは医療の仕事につきたいと思ったからですが、それは一年間大学の医学部研究室で医学研究の実験などをさせて頂いた時、指導していただいた医師の先生に感銘を受けたからです。その先生はいつも患者さんのことを一番に考えて、臨床業務や病気の治療のための研究に熱心かつ誠実な先生でした。私もこの先生のように、人のために情熱を燃やして働きたいと思い、胚培養士なら手先の器用さも活かせると興味を持ったことがこの道に進んだきっかけです。
ーー 卒業後はどちらのクリニックでご経験を積まれたのでしょうか。
楠本さん:最初に入職した職場はほとんど体外受精が行われていない施設でしたので、技術を学ぶ機会が得られませんでした。そのため臨床件数世界一のクリニックに転職しました。患者さん達からは体外受精の最後の砦と言われていた施設で、培養室の技術レベルが高いことで有名でした。
当時はかなり厳しく指導された記憶があり、怖い先輩がいっぱいいました(笑)。精神的にも堪えましたし、卵子や胚を触ることが怖いことだと植え付けられましたね。
ただそのおかげで、卵子や胚を取り扱う責任の重さを知ることが出来たので、業務に関してとても慎重になりました。取り違え防止等の安全管理能力も鍛えられましたし、的確に素早く取り扱って卵子や胚にかかるストレスを減らすという培養技術も身に付きました。
また、臨床件数が多かったので症例ごとの対応など、教科書には載っていない生きた知識や経験を積めたことは大きな糧になりました。
ーー 培養室は施設によって大きな差があると聞きますが、培養室の違いによって妊娠成績・技術差というのは出てくるものでしょうか。
楠本さん:はい。体外受精は施設によって治療成績に差がありますが、それは排卵誘発を行う医師と、卵子と精子を受精させて育てる培養室の、それぞれの技術差や治療方針の違いが反映しているからだと考えられます。
培養室ごとの違いを環境面から見た時、空気清浄度、温度、湿度、室内灯に用いられる光の波長、使用機器や試薬、培養液、作業時の動線など、全てが施設ごとに異なります。どこもそれぞれ医師や培養室長などが方針を定めて、培養環境を作っています。
人材の面で見た時、培養士の知識や技術力も異なります。どのような培養環境を作ればいいかという知識があるか、ストレスを受けやすい卵子や胚に対して、何をどこまで気遣いながら作業を行うか、的確に素早く作業を行えるかなど、人により知識も技術もかなり差があります。
培養室でのこれらの違いが、体外受精での「受精する」「胚が育つ」「移植して妊娠する」といった各段階の成功率へ影響してきます。
OJTで学びながら、数年かけて一人前の培養士に育っていく
ーー 日本卵子学会認定の生殖補助医療胚培養士の資格や、日本臨床エンブリオロジスト認定の資格がありますが、楠本さんも培養士になってから取得されたのですか。
楠本さん:はい、培養士になってから生殖補助医療胚培養士の資格を取得しました。どちらの資格も実務経験が必要になりますので、皆さん働いてから取得しています。以前はキャリアが長くても資格を持っていない方が多かったですが、最近は資格保持者が増えました。胚培養士という仕事が以前より認知度が上がりましたので、患者さんに安心していただきたいという意味もあって資格を取る方が増えたのではないでしょうか。
胚培養士という仕事は国家資格ではなく、仕事をする上で要件が規定されている職種ではありません。患者さんからすれば、どんな人が自分の大切な卵子、精子や胚を扱っているかわからないという不安を感じるかもしれません。資格があれば一定の知識や経験を持っていることを担保できますので、一つのボーダーラインを示す役割になるのではないかと思います。
ーー 不妊治療では、医師の技術や経験だけではなく、培養室が妊娠成功への鍵を握るとも言われています。一方で、患者さんからは中が見えないため、自分の卵子や胚がどう扱われているか分からない、といった声も聞こえます。実際に、培養室では採卵後どのようなステップがあるのでしょうか。
楠本さん:体外受精では ①採卵で卵子を体外に取り出す、②精子と卵子を受精させる、③受精した胚を培養する、(④凍結保存・融解処理をする)、⑤移植して子宮に戻す。
といった、4~5つのステップを踏みます。
培養室での作業は全てが手作業で、顕微鏡を見ながらの細かい操作です。また、取り違え防止のために、精子や卵子や胚を入れる容器や作業工程などを、常にダブルチェックで確認しながら進めていきます。
新人培養士として就職すると、実際に人間の胚を取り扱った経験のある人はいないので、みんな等しく一から施設ごとの培養技術を学びます。
身支度や手の洗い方から始まって、清潔操作や環境管理、ダブルチェックのやり方など、勉強することは多くあります。培養室内での基本的な立ち居振る舞いを覚えたあと、上記5つのステップを行うための培養技術を学びます。
しっかり教育する施設では、一通りの技術を身につけるのに大体3~5年かかり、その後さらに経験を積むことで技術を安定させ、知識を増やしていきます。
技術も大切ですが、肉眼では見えないものを取り扱っているので、取り違え事故防止のためにも、安全管理能力が非常に重要になります。新入培養士は治療への影響が少ない業務から始めて、働きながら技術と安全管理に関するルールを一つ一つ身につけていきます。
ーー 治療への影響が少ない業務から始めるということですが、具体的にはどのような作業になりますか?
楠本さん:精液検査や精子の精製処理の練習から始めるのが一般的かと思います。慣れてきたら採卵時の検卵を始めるなど、出来る業務を増やしていきます。
培養士は、基本的にオン・ザ・ジョブ・トレーニングで実際の業務に取り組みながら仕事を覚えていきますが、当院ではどの業務もまずは練習で一通りの手技を身に着けることから始めます。練習を積んで問題ないレベルに達した培養士しか臨床業務は担当せず、それでも最初は先輩から指導やチェックを受けながら作業し、習熟していないところがあれば業務を交代することで、治療に影響が出ないように進めています。
ーー 受精卵の取り違いに関しては、どのような防止策を取っていらっしゃるのでしょうか?
楠本さん:精子や卵子や胚は肉眼では見えないものなので、安全管理にはかなり神経を使います。取り違えは決してあってはならないことであり、私達胚培養士が患者さんに安心して治療を受けていただくため、万が一にも間違いが起こらない体制を整えることが重要です。
2人以上で確認するダブルチェックが、取り違え防止策の基本となります。精子、卵子、胚の操作時には、必ずダブルチェックを行っています。
採卵で卵子が採れて胚移植でお腹に戻るまで(体外に取り出している間)に、当院では大体5~10回くらい容器の移し替えが行われます。これらの容器の移し替えの時や、受精させる操作の前に卵子と精子がご夫婦のもので合っているかなど、体外受精の各工程で、作業内容も含めて、実施者と確認者の2名でダブルチェックを行いながら作業を進めています。
最近ではこのダブルチェックの精度をより高めるため、バーコードやQRコード、ICチップなどを用いた認証システムなども併用されています。
また、一つの作業台で同時に複数組の検体を取り扱わないことも徹底しています。そのため作業時に他の患者さんの検体と一緒になることはありません。
当院ではさらに安全性を高められるように、培養器内で卵子や胚を保管する場所を患者さん毎に個室管理し、精子処理で使用する機器を複数組用意して動線を分断するなどの工夫をしています。これらに加えて、 培養士一人で一作業しか行わない(同時に別の検体を扱わない)、ダブルチェックは声出しおよび指差しで確認するなど、徹底的にリスクを排除するようシステム化しています。
ーー 培養室で受精卵の管理をする上で、一番難しいことや、気にしなければならない点について教えて下さい。
楠本さん:技術的には、卵子や胚への影響は一つ一つの手技の積み重ねになりますので、いかに早く正確に処理ができるかが大切です。特定の技術というよりは、全体的な技術レベルが重要になってきます。また、培養環境を安定させるためには、培養環境全体を把握して、変化に気付ける仕組みを作ることが大切だと思います。
ーー 俯瞰して全体を理解しておく必要があるということですね?
楠本さん:はい。卵子や精子や胚にとって体外環境の何がどう影響するのか、何が治療成績に結びつくのかということを理解して、臨床業務で工夫することが大切だと思います。
ーー 桜十字渋谷バースクリニックの培養室の培養士の方は、ご経験年数的に何年方がいらっしやるのでしょうか。
楠本さん:培養士11年目が2人と、8年目が1人、6年目が1人です。
患者にとってタイムラプス型培養器はどんなメリットがある?
ーー 最近多くのクリニックの培養室で取り扱われているタイムラプス型培養器ですが、これがあることによって患者側にはどのようなメリットがあるのでしょうか。
楠本さん:培養器とはインキュベーターとも言われ、体内環境に似た環境を作ることができる、卵や精子の保管機器です。タイムラプス型というのは、中にカメラや顕微鏡が内蔵されており、定期的に中にある胚の写真を撮ってくれる機能がついたものになります。
タイムラプス型培養器の主なメリットは3つあります。
① 観察する時に胚を培養器から取り出さなくてすむので、胚にかかるストレスが減って成長に良い影響があると言われています。
体外受精では、通常お腹の中にある卵子や胚を体外で扱うため、体外環境での光や温度、pHや酸素濃度などの変化、全てがストレスになっていると考えるのが自然です。タイムラプス型培養器があれば、観察のたびに外に取り出す必要がなくなり、胚にストレスを与えることなく培養ができます。
② 正常受精が確認できていない胚を培養するリスクを減らせます。
採卵日当日に体外受精か顕微授精を行って卵子と精子を一緒にすると、翌朝には受精反応が確認できます。通常ですと、培養士は受精確認をするため朝早く出勤し、培養器から胚を取り出して顕微鏡で観察します。しかし受精反応が確認できる時間は限られており、卵によっては反応時間が異なるため、まれに受精判定が出来ない胚が出てきます。この場合、染色体異常の胚を培養している可能性が出てきます。
タイムラプス型培養器があれば、10分おきなど定期的に自動で胚の写真を撮ってくれるので、受精反応をしっかりと確認することが可能です。
③ 機種によってはAIが胚の成長過程を評価して良好胚の選別をしてくれますので、妊娠率の上昇にも繋がります。
これは機種によって異なりますが、胚の分割スピードやタイミングなどから良好胚の選別をしてくれるものもあります。
培養士だからこそわかる、培養室から選ぶ病院選びとは
ーー 培養室は患者側から見ると分かりにくいのですが、培養士の視点で見た際に、このような病院を選んだ方がいい、といった選び方はありますか?
楠本さん:施設の詳細な情報は我々同業者同士でも得づらいんですよね。正直なところ、一番影響が大きいと思うのは、どんな培養士が働いているかです。
同業者内では「あそこは○○さんというしっかりした室長がいるから大丈夫」というように、誰が管理者をしているかという点で培養環境の良し悪しを推察することが多いです。室長が変われば成績が変わると言われていますし、みんな色々な培養士がいることを知っているからだと思います。
患者さんはそこまでわかりませんから、培養設備が整っているかどうかを見てみてください。少しでもいい結果を出そうと考えている施設は、培養室への設備投資をしっかりしています。これにより施設側が患者さんの治療を大事にしているかどうかや、培養側の治療への影響を理解しているかどうかもわかるので、自ずと施設自体の考え方やレベルもわかりますね。
最後になりますが、一番は医師と培養士の連携の結果、どんな治療成績が出ているのか、自分の年齢を当てはめて確認してください。卒業するまでに何回採卵が必要なのかと、移植した時の妊娠率はどうなのかが、目安としてわかりやすいと思います。
当院では、妊娠した患者さんのうち、全年齢の平均で87%の方が一度の採卵で妊娠しています。採卵を二度した場合、合わせて97%の方が妊娠しています。これはかなり高い数字で、大体3~5回でこのくらいの数値になる施設が多いのではないでしょうか。胚移植の成績も良好ですので、良好胚を採卵で得ることが出来ており、それをしっかり育て、移植胚の選別や胚移植操作に問題がないことがわかります。
個人差の大きい治療ですから、技術水準に問題のない施設を選ぶというのが大切だと思います。
ーー 最後に培養士の仕事をしていて、印象に残っていること、嬉しかったことについてお聞かせください。
楠本さん:培養士になって印象に残っていることは、仕事を教えてくれた厳しい先輩方ですね(笑)。当時は毎日枕を濡らす日々でしたが、今となっては全てが自分の身になり、ひいては患者さんの治療に役立っているので、ありがたい経験でした。
嬉しいことは日々あります。受精したり、育てた胚が胚盤胞に育ってくれたりする時ですね。卵子も精子も胚も、すごく綺麗なんですよ。私は卵や精子を見るのが大好きです。胚培養している時はどれも元気に育ってほしいという想いで見ているので、綺麗な胚盤胞に育ってくれた時は、うっとりして見入ってしまいます。当院はタイムラプスがあるので、毎日卵を好きなだけ見ることができます。だから、毎日結構幸せですね(笑)。患者さんにも是非、見て頂きたいなと思います。
培養士に対する熱い想いを持ちながら、厳しい教育過程を経て一人前の培養士へと上り詰めた桜十字渋谷バースクリニック培養室長の楠本さん。また、精子や卵子に愛情を持って向き合う姿勢が印象的でした。「受精卵って綺麗なんです」と話す理由が、この受精卵を見ているとよく分かるような気がします。