ファミワン胚培養士の川口 優太郎です。
前回、「世界初の体外受精児誕生に貢献した一人の女性の物語」というコラムタイトルを付けておきながら、【前章】では私の陳腐な文章力と文字数的な関係で、この物語の主人公となるその女性について一切触れずに終わってしまい大変申し訳ありませんでした(汗)。
今回のコラムでは、しっかりとその女性にスポットを当てて、その半生について解説をしていきたいと思います!
プロジェクトに偉大なる貢献をした一人の女性
実はあまり知られていませんが、ルイーズの誕生には、パトリック・ステップトー医師とロバート・エドワーズ博士の他に、もう一人多大な貢献をした発生学者の女性がいます。
彼女の名前はジーン・パーディ(Jean Purdy)。
パーディは、もともとは看護師としてケンブリッジにあるロイヤル・パプワース病院で働いていました。ロイヤル・パプワース病院はイギリスで初めて開胸手術が行われた病院(※のちに、英国で初めて心臓移植を行った)でもあり、免疫学や臓器・組織の拒絶反応などに見識を持っていた彼女は、病院の研究者の一人としても優秀な活躍をします。
1968年に、ケンブリッジ生理医学研究所のエドワーズ博士のもとに志願し、体外受精プロジェクトを行うための発生学者として新たなキャリアをスタートしました。
当時のメディアは男尊女卑が色濃く残る時代
パーディは、ステップトー医師、エドワーズ博士とともに体外受精技術の確立に携わり、のちにルイーズとなる胚の受精や細胞分裂を観察・管理した人物でもあります。
1969年に、専門的に生殖医療(ヒト胚の発生学)を学ぶためアメリカ・カリフォルニアに渡って技術・知識を学び、エドワーズ博士とともにヒト卵子の受精機構の解明に努めました。
しかし、残念ながらつい最近まで彼女の功績が表立って語られることはほとんどありませんでした。
というのも、当時は『女性科学者』というと、現代と比べるとほとんど評価されることもクローズアップされることもなかったため、体外受精技術の確立における彼女の役割や貢献が認識されていなかったことが要因の一つであると言われています。
パーディは、ステップトー医師、エドワーズ博士とともに26本の学術論文の共著者となっており、そのキャリアの間に実に約400人の体外受精児の妊娠・出産に貢献しています。
生殖医療業界の躍進を評価されないまま亡くなった
ルイーズが誕生した年、当時の神学院院長で司祭であったフランシスコ法王が「人間の手によって作られた子どもは歓迎すべき贈り物ではない」とし、このような研究や医療を提供することを「命をもてあそぶ行為になり兼ねない」と非難したことで、ステップトー医師、エドワーズ博士、パーディの3人は一転、世間からの批判や敵意にさらされることになります。
ルイーズの母レズリーにも、否定的な内容の手紙が世界中から寄せられるようになり、中には脅迫文のようなものや、壊れた試験管と血のりが送られてくることもありました。
看護師でもあった彼女は、このような逆境の中でも患者たちと多くの時間を過ごし、人々を安心させるための役割も果たしました。
こうした世間の批判に耐えながら、パーディはヒトの胚発生技術をさらに進化させていき、1980年には世界初の体外受精専門クリニックとなるボーン・ホール・クリニックの創設に携わりました。
しかしながら、創設者の一人でありながらも彼女の功績は表に出ることは無く、1985年になんと39歳という若さで悪性黒色腫によって亡くなり、その短い生涯に幕を閉じました。
パーディの功績を残すために奮闘したステップトー医師とエドワーズ博士
ルイーズが産まれたオールダム市の地域保健局は、世界初の体外受精児の誕生を記念して記念碑を建てる計画を打ち出しますが、そこにパーディの名前が入ることはありませんでした。
また、エドワーズ博士は、体外受精技術を確立させたことが高く評価され2010年に“ノーベル生理学・医学賞”を受賞しましたが、ノーベル賞は死後に授与されないこともあって、パーディもステップトー医師も受賞の対象にはなりませんでした。
しかしながら、のちに公開された文書において、エドワーズ博士とステップトー医師が彼女の功績を残すために奮闘していたことが明らかとなります。
実は、記念碑を建てる際にエドワーズ博士らがオールダム保健局に宛てた手紙があったのですが、この手紙は保健局で管理されており、つい最近まで公表されることはありませんでした。
この手紙の中には『パーディはこのプロジェクトに多大な貢献をした』、『我々(エドワーズ博士とステップトー医師)の名前と並んでジーン・パーディの名前を刻むように要請する』と書かれていたのです。
また、エドワーズ博士はボーン・ホールで行われた「体外受精 25周年 記念式典」の中で『我々は「三人組」であり、ジーン・パーディは最も忍耐強く、不屈の精神を持っていた。彼女がいなければ我々の仕事はどれも不可能だっただろう』と述べ、同様の内容は著書の中にも明文化されています。
ジーン・パーディの功績を称え、新たな記念碑が建てられた
オールダム市の議会は、『組織的あるいは性別的な差別によって引き起こされた不正を正すため』として、地域保健局で管理されていた手紙を一般に公開し、「パーディの功績が無視されることになったのは、当時の偏った制度や意向、組織的あるいは性別的な差別が根底にあった」ことを認めました。
その上で、彼女たちの歴史が忘れ去られることが無いようにとして、2022年に彼女の名前が刻まれた新しい記念碑が、ロイヤル・オールダム総合病院に建てられました。
今回のコラムでは、生殖医療業界に多大な功績を残しながら、時代の陰に埋もれてしまったジーン・パーディの生涯を【前章】・【後章】にわたって取り上げてきました。
このような時代にありながら、不妊に悩む方々のために尽力し続けたこと。なにより、看護師と胚培養士という2つの顔を持っていた彼女の精神は、生殖補助医療に携わる我々が最も模範とするべきものなのかもしれません。
[参考]
- Bristol Archives https://www.bristolmuseums.org.uk/bristol-archives/
- reddit/historyofmedicine https://www.reddit.com/r/historyofmedicine/
- THE LANCET , Birth after the reimplantation of a human embryo: P C Steptoe, R G Edwards, https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/79723/
- 「新しい産科学 生殖医療から周産期医療まで」鈴森薫、吉村泰典、堤治(名古屋大学出版会)
- 「生殖補助医療(ART) 胚培養の理論と実際」日本卵子学会(近代出版)